今私たちの暮らしがある上京の地で、有名な応仁の乱の戦が行われ、上京のまちはいったん焼け野原となりました。戦の始まりからちょうど550年を迎える今年、ふだん耳慣れない“東陣”の存在に着目して、5月21日(日)上京区総合庁舎で、「応仁の乱~今輝け東陣(ひがしじん)を訪ねて~」が開催されました。その中で行われた特別対談「応仁の乱550年目を迎えて」についてご紹介します。
応仁の乱の東軍、西軍を率いた大将は、細川勝元、山名宗全の二人でした。今回の特別対談では、東軍からは細川家当代の護熙(もりひろ)氏と親交が深く細川家代々の美術品や文書を守り伝える永青文庫常務理事の吉丸良治(よしまるりょうじ)氏を、西軍からは全国山名氏一族会理事長の山名靖英(やまなやすひで)氏をお迎えしました。山名氏は学生時代を上京区の山名町近くで過ごされたとのことです。
コーディネーターは、京都市歴史資料館館長の井上満郎(いのうえみつお)先生です。
対談では、まず、井上先生から、応仁の乱の要点と留意すべき点について基調となるお話がありました。
(井上先生)
応仁の乱は、1467年正月から1477年11月まで11年間の内乱であった。京都が受けた被害も歴史の中で最大である。京都での被害は当初の3~4年間に集中している。戦力の中心は足軽。農民からの徴兵であり、農繁期もあるので、毎日戦いが続いたわけではない。平穏な時期もしばしばあったということに留意しておく必要がある。
乱の原因は将軍家などの家督争い。家督はその家の財と地位を継承すること。一方は細川勝元に付き他方は山名宗全に付く。個人対個人の争いではない。両派に分かれて争って、勢力間の調整がつかなくて最後は実際の武力衝突となった。そういう時代だった。
東軍16万人、西軍9万人というが、戦力の主軸となった足軽は大半は地方から徴兵されており、京都で略奪まがいのことを行った。京都への思い入れや愛着を持たない。破壊に対しての悲しみもない。これが、すべてを焼き尽くす戦となった大きな要因の一つである。
続いて、井上先生のコーディネートにより、お二方のお話を交互にお聞きする形で対談は進みました。お話はいずれも、そのルーツから始まり、やがて京都を活躍の舞台として当時の足利幕府の要職を占めるようになるまでの経緯と、応仁の乱前後、そして、乱以降、約550年間を経て現在に至るまでの過程および現在の一族の活躍のご様子などについて興味深いお話が続きました。
(吉丸氏)
約700年前に、足利本家が三河の守護大名になった時に、その一門であった足利義季(よしすえ)が、三河国(愛知県岡崎市)額田郡に領地を頂いた。その村が細川郷だったので、その地名を名乗った。以降、代々細川を名乗って今日に至っている。
三河から始まった細川の一門は、その後、足利本家と連携をとりながら成長し、足利尊(たか)氏(うじ)の時代には尊氏を助けながら室町幕府につながってゆき、京都が最終の活動の舞台になっていった。 細川家の初代となる頼(より)之(ゆき)は三代将軍の義(よし)満(みつ)を助け、最初の管領に任命された。以降、他家との交替ではあるが、細川家が代々管領を勤めた。この頼之の弟が頼(より)有(あり)であり、現在の細川護熙さんは、頼有の系統につながっている。
(山名氏)
山名家は、清和源氏の流れを組み、源義家(よしいえ)の孫にあたる新田義重(よししげ)の三男義範(よしのり)が上州(群馬県高崎市)山名郷を分け与えられ、その土地の名前を取って山名と名乗ったのが始まり。
年代は不詳だが、山名八幡宮が建ったのが平安末の1175年頃で、それよりも以前から山名を名乗っていたので、約900年山名が続いていることになる。
山名義範は源頼朝(よりとも)が鎌倉で挙兵した時にいち早く参戦し、源平の戦いで武功を挙げ、源姓を名乗ることを許された。以降、幕府では、代々、引付衆という高い役職についている。
その後、山名時氏(ときうじ)が足利尊氏と一緒になって北条執権の専制制度に対して戦いを行って名を挙げた。室町時代には三管四職の職家の一つとして勢力を拡大した。一時は日ノ本全体の六分の一の勢力を占め、六分の一殿と言われるほどの勢いがあった。
愛知県や、遠く群馬県から起こった氏族が、やがて室町幕府の時代に京都に集まり、ともに幕府の政治を動かすまでに成長し、将軍や他家の家督争いに巻き込まれて互いに一軍の大将として戦わずにはいられない状況に追い込まれていったわけです。そして、いよいよ応仁の乱が勃発します。戦いの概要は、すでに井上先生のお話をご紹介しましたが、山名さんからも分かりやすい解説をしていただいたのでご紹介します。
(山名氏)
戦国時代の初頭にこの応仁の乱が起きる。当時の足利義政(よしまさ)将軍が、優柔不断だった。将軍職を自分の弟の足利義視(よしみ)に譲ると約束した後、妻日野富子が懐妊し義尚(よしなお)が生まれる。日野富子は自分の子供が将軍職を継ぐことを願い、争いが起きる。義視は細川に応援を頼む。富子は山名に頼む。こうした将軍の後継争いが乱の一つの発端である。加えて畠山家の相続争い、斯波家の相続争いなどが絡んで応仁の乱が始まった。一夜もむなし(1467)年から戦乱が始まり、長く続いた。
“なれや知る都の野辺の夕ひばりあがるをみても落つる涙は” (応仁記)ということでほんとうに都は焼け野原になってしまった。
細川と山名は親戚関係にあり、本来仲が良かった。それが、将軍家や各家の後継争いに両方とも巻き込まれた。この乱を機に戦国時代に入る。一つの氏族が生き残るための政略が強く出された時代であった。
西軍の大将だった山名宗全は赤入道というあだ名があった。それほど直情型の人だった。不正を許さない。背中から斬らない。足利義政の父義(よし)教(のり)が暗殺された時、赤松光(みつ)弘(ひろ)が後ろから斬った。宗全公は烈火のごとく怒った。豪放磊落な性格。こちらからはなにもしない。何かあった時は、正義を貫く。こういう生き様は、見習っていかないといけない。
11年間に及んだ長い戦いの後、京都(特に上京)を焼け野原にした戦いは収束しました。そして、戦いの主役であった細川家、山名家のその後について、お二方のお話は進みます。
(吉丸氏)
室町幕府とともに、本家筋は全部滅んでしまった。次男頼有の筋の細川藤孝(ふじたか)(幽斎)(ゆうさい)が、文武両道において秀でて信長、秀吉、家康に仕えた。中興の祖である。幽斎は長岡京の青龍寺(勝龍寺)城を信長から拝領し、その後、丹後の宮津城、田辺城を手に入れて、京都を治めていく。2代目忠興(だたおき)は関が原の戦いで功があり、九州豊前小倉39万9千石を与えられた。やがて肥後54万石に加増・移封される。こうして、近代につながり今日の細川家を築いていく。この幽斎から数えて18代目が細川護熙さんである。
さらに、この幽斎がなぜこれほど活躍できたのかという根拠の一つとして、幽斎は第12代将軍足利義晴(よしはる)のご落胤であるという説もあるというお話に、会場がどよめく一幕もありました。
(山名氏)
山名家は山名豊国(とよくに)(禅高)(せんこう)さんが中興の祖となる。秀吉、家康の時代に仕え、御伽衆として連歌、お茶など、文化面で力を入れて友人関係を作った。武士というものは置いておいて文化面で時の政権と付き合ってきた。
生きざまという形では、争い事は応仁の乱で終わり。これからは、文化のために力を尽くしていこうということになる。
(吉丸氏)
細川家の約700年の資料を守り、管理している永青文庫がある。永青の名前の由来は、頼有の菩提寺である建仁寺塔頭永源庵の永と、幽斎の居城・青龍寺城の青を組み合わせたものである。細川家の16代がその名を付けて、今日まで守ってきた。
永青文庫には美術品が6、000点、未調査2、000点。文書(もんじょ)は、93、000点。全容は今後調査が進めば明らかになる。今までの調査で、中世の文書が266点、重要文化財に指定された。うち、応仁の乱の頃の文書が130点、信長から幽斎への文書などが59通である。美術品は、国宝8点、重要文化財32点。文書の方は、今後まだまだ期待できる。理事長の細川護熙さんは、最初は美術工芸品に関心があったが、最近は文書の方に非常に関心を持って、私も一緒になってやっている。
熊本では「先の戦では」と言った時は、ふつうは太平洋戦争くらいの話だと考えるわけだが、先代は、「先の戦で大分傷んでいるところがある。応仁の乱のあの時代にしっかりと守らなければいけなかった。」と、こういう話をされる。しっかりと誰かが自分自身で守るというくらいの気持ちでやらんといかんということをくどいくらい言われていた。
(山名氏)
山名氏一族会を32年前に立ち上げた。山名を名乗る全国9、000人の山名氏に資料提供を呼び掛けた。残念ながら細川家のようには資料が残っていない。不思議なくらい。それでも資料提供を受けて、兵庫県の香美町、法雲寺に山名蔵を作って山名家ゆかりの展示物を収蔵している。点数は多くはないが、甲冑、刀、古文書など、いつでも見ていただける。
この法雲寺にほど近く、和田山にある竹田城は丹波を領国とした山名宗全が築いたもので、天空の城として人気があり、雲海の中に浮かぶ城の姿は、日本のマチュピチュとも言われ、本当に素晴らしい城である。今は石垣しか残っていない城だが近年建物の配置を表す見取り図ができた。 この城の攻防で赤松家との争いがあり、多くの犠牲者を出した。城のふもとに慰霊塔を造り、3年前に山名家と赤松家の両方が寄って合同の慰霊祭をやった。
山名氏一族会は、年に一回は総会をやって、歴史的な山名家にまつわる菩提寺めぐりをしたり、最近では歴史講演会ということで応仁の乱を専門的視点からお話を聞いたりしている。絶えず先の戦いについては思い出し、皆さんの中で共有している。
今、「応仁の乱」という本が30万部を超えるベストセラーになっている。今年の11月末の総会では、著者の呉座勇一さんを招いて講演をしていただく。それも会場はこの西陣でやりたいと考えている。
以上、井上先生は終始、絶妙のコメントでお二人のお話を引き出していかれました。途中、印象深かった言葉と、締めくくりとして熱く語られたお話をご紹介します。
(井上先生)
応仁の乱から戦国時代にかけて多くの大名が没落した。その中で、細川、山名の両家は見事に生き残ってきた。細川家も、山名家も、無骨なだけではなく、ともに文化を大切にしてきた。ここまで長く続く背景に文化があったのではないか。
応仁の乱の時代は、たしかに大破壊の時代だった。しかし、一方で残したものがある。これを忘れてはならない。この時代に、町衆(まちしゅう、正しくは「ちょうしゅう」)が生まれ、自力救済すなわち自分たちの力で自分たちのまちを作り守り担っていくという、そういう人々が、意識が育ってきたことも事実。それが今に続いている。京都の基礎に流れている。
後世、今に続く様々な文化を形成する原点に応仁の乱がなっていることは紛れもない事実である。
この後、司会の方の提案で、西陣、東陣を代表されるお二人が歩み寄って固い握手をされました。そして自然とわきおこった拍手の中で閉会となりました。
会場から何度も笑い声の聞こえる和やかな対談となりました。“東陣”というテーマに小さくとらわれることなく、自在に時空を行き来する時間であったように思います。これからも、東陣のあったとされる場所で、応仁の乱から現在までを何度も往復して、歴史の楽しさを味わえるといいなと思いました。自分たちのまちの歴史に関心を持ち一緒に理解を深めることにより、自分たちが同じ歴史を共有する仲間であると気づくことができ、そしてそこから今の生活を心豊かにしてくれる何かが始まる。細川家、山名家の応仁の乱を挟んでの長い歴史のお話を聞きながら、その感を強くした90分でした。
網野正観
一昨年の秋に、上京区内の改修された京町家を購入し、夫婦で移り住んできました。ちょうど2度目の夏を迎えようとしています。地域で催される行事を楽しみながら、京町家をはじめとする文化財の保全・再生にも関わりたいと、京都市文化財マネージャーへの登録や市民団体の活動に参加するなど勉強やお手伝いに忙しくしています。また年明けには建築士事務所を始めました。