1000年の都、京都。そんな京都の中に位置する、文化と歴史が色濃い上京区が、明治維新当時どのような歩みを辿ったのか。その中でどんな「負債」を抱えて次世代へと足を伸ばしていったのか。3月4日(日)上京区総合庁舎にて、佛教大学の非常勤講師で、古地図研究者である、伊東宗裕先生によるレクチャーが行われました。
現在、京都市では「明治150年記念全区リレー事業」が催されています。明治維新で、都市存亡の危機に立たされた京都は、具体的にどのような状況であったのか。明治維新から150年を記念し、全11回にわたり、明治期にちなんだレクチャーやまち歩きがリレー形式で開催されています。
今回はその第2回目。「上京から上京区へ」という名に付された今回のレクチャーでは、明治維新の発起により上京が抱えることとなった「負債」に焦点を当てて、古地図を用いながら当時のまちの状況を振り返りました。
都の機能を失い、衰退の一方を辿った京都。そんな中で上京に残された“負債”は2つ。「公家町」と「藩邸」でした。まず「公家」とは、朝廷に仕える貴族や上級官人のこと。彼らの住まいが立ち並んだのが「公家町」であります。現在の上京区には京都御苑がありますが、この大きな敷地がまさに江戸時代の公家町でした。
明治維新により、公家の住民たちがみな東京へと住まいを移してしまい、残されたのは広大な留守の公家町だけであったのです。ちなみに伊東先生曰く、当時の京都御苑は91万平米、それは東京ディズニーランドよりも広大であったそう。だからこそ負債の負担は大きなものとなりました。
こんにちの京都御苑は美しく整備され、京都市を代表する観光名所でありますが、これは「大内保存事業」といった、いわゆる敷地改革のおかげだったのです。火が消えたようになってしまい、また無法地帯になりかねないその土地の存在を危惧した当時の役人達の、努力の賜物であるのです。
そしてもう1つの負債である藩邸とは、大名の邸宅を指します。特に上京には藩邸が多く存在し、幕末にその数は急増しました。しかし明治維新により、時代の主流であった大名の時代は終わり(伊東先生曰く「バブルの果て」)、藩邸もまた大きなお荷物となってしまうのです。伊東先生は、この負債がいかに大きいものであったか、古地図を使って説明されました。
負債の負担を経て、明治12年に現在の上京区の区画が設定されました。現在の上京区は、市内を代表する観光地のひとつ。先ほど述べた京都御苑をはじめ、同志社大学といった学術的な場に加え、伝統的な寺院や神社が多く残された、歴史と文化が溢れる町です。まさに負債を抱えた「上京」から、現在の住民とともに生き続ける「上京区」へ。
当日の会場には、多くの皆様が訪れました。一見専門性が高い内容ではあったものの、充実した資料と伊東先生の巧みな話術により、歴史がぐっと身近に感じられたよう。伊東先生がお話しされている間、「へぇ〜!」「そうやったんやぁ」といった感嘆の声が絶え間なく聞こえました。まちの歴史を知ることとは、そのまちへの愛を確認することでもあります。今回の講演は、そんな相互関係を再認識させられる、参加者一人一人の熱心な姿が印象的でした。
講演終了後、伊東先生からお話を伺いました。「現代に生きる私たちは、昔江戸幕府が終わり、明治維新が起きて…と歴史の授業で習ったからこそ、その出来事を当たり前の決定事項のように捉えてしまいがち。でも、当時の人々は違います。明治維新が起きることだって当たり前ではありませんでした。そういった視点で歴史を捉えていくことが大事であるのではないでしょうか。」皆さんも、まちの歴史を掘り下げることで、違った視点でそのまちを見つめ直し、新たな発見をしてみませんか。
桑田 萌
京都の大学で音楽を学んでいます。根っからの大阪人ですが、上京の地域活動に参加していく中で、皆さんの温かさに触れ、惹かれていく日々です。「西陣朝市マルシェ」を盛り上げる学生団体「西陣はらぺこマルシェ」に所属し、「はらぺこ新聞」の取材・執筆を担当、ゲストの皆様の魅力を発信しています。将来、人と人との架け橋を作るライターになるべく、日々修行中です。