長艸敏明氏は京繍伝統工芸士で、世界を股に掛ける刺繍作家、アーティストです。京都西陣に生まれ育ち、大学を卒業後、京刺繍職人であった父親と同じ道へ進みました。今年は京繍(ぬい)の世界に入られて約50年、そのうち現在から数えて30年ほどの間で制作された物から厳選された作品を、その著書『繍(ぬ)えども繍(ぬ)えども』(講談社、2019年)の出版記念特別展(会期:令和元年11月2日~7日)と銘打って、日蓮宗大本山妙顕寺(京都市上京区)にて開催しました。京都で開催される個展としては、実に13年ぶりだそうです。実はカミングの取材をするにあたり、事前に妙顕寺へ打合せのため寄せていただいたところ、彬子女王が内覧に来られるタイミングに出くわし、非常に驚きました。彬子女王は『繍(ぬ)えども繍(ぬ)えども』にも寄稿され、長艸氏と懇意にされているようです。
このレポートでは、特別展期間中に開催されていたトークイベントでの長艸氏のお話し内容のほか、特別展で展示されていた作品の一部をご紹介します。トークイベントでは長艸氏の作品に関する考え方、見方、近年のプロジェクトのことなど幅広く話され、お聞きしてから作品を拝見すると、より一層作品の面白さが伝わります。
11月3日(日)、妙顕寺本堂にて開催されたトークイベントには、午前中にもかかわらず多くの参加者が来場しました。イベントは長艸敏明氏、清田学英上人(日蓮宗大本山妙顕寺執事長)、三木大雲上人(日蓮宗広報役員/日蓮宗光照山蓮久寺住職)の3名での鼎談形式で、本堂での開催で参加者の間には若干の緊張が見られたのですが、軽妙なトークが進むにつれ徐々に参加者の緊張もほぐれたようです。内容は多岐にわたりますが、印象的なお話しを四つご紹介します。
実は著書に関するデザイン、タイトルについては長艸敏明氏の御子息が発案されたそうです。「繍えども繍ぬえどももうからない」ことから来ていると、長艸氏は来場者を楽しませてくれますが、禅の言葉で「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を踏む」(すでに頂点に達しているけどもさらに一歩進める)から、さらに一歩、根性を出せという子息のメッセージかと気持ちを奮いたたせています。また、刺繍は限界点、これでもうよくできたという時点がなく、永遠に直すことがあるがやりすぎては意味がない、もう一針刺せば余分であるということもある。その塩梅を図る難しさについて語られました。
額や軸、着物などの作品は、見ていて非常に楽しいもの、おどろおどろしいものがありますが、いずれも長艸氏の解釈をぜひとも聞いてみたいと思わせるものばかりです。長艸氏によると、こういうものを作りたいということに既にあるストーリーを合わすこともあるし、一方で着物や帯等の制作の依頼で対象物(人物)がある場合、しかもその人が身につける何等かの意図がある場合、例えば身につけてどうしてもある人を虜にしたいとか、であればその人をいかに美しく見せるかに関して知恵が浮かぶのだそうです。
チラシに採用された「仲良し」※は寒山拾得をモチーフにされていますが、鼻毛を出して寒山と拾得の仲がよさそうな雰囲気、にんまりとほほ笑み、手には巻物を持たせています。巻物はわざと文字が読めるよう出しているのは、巻物を手に持たせてみたとしていずれ誰かが中には何が書かれているのかと尋ねるかもしれない、であれば先に中を見せようという先手必勝の心意気です。数多ある世の中の寒山拾得のモチーフを、さらに長艸氏の解釈、視点で、しかも刺繍という技法であれば立体化できるという点で作り上げ、見ている側の目を引き付ける、思わずクスリと笑わせるそういうパワーを感じます。他にも、法華経の教えを題材にしたものなど多く、長艸氏が培われた教養と情報量、そこに感性とユーモアを加味して見る側を楽しませてくれます。身につけるものに関してその人を一番美しく見せるという意識は職人的であり、一方で見ている側へメッセージを伝える部分ではアーティスト的です。
※「仲良し」は、日本画家の若佐慎一氏の作品「寒山拾得」から着想を得たそうです。
https://twitter.com/swakasa/status/898521840401891328?lang=ja
天寿国繍帳とは、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する飛鳥時代(7世紀)の染織工芸で銘文では聖徳太子の死を悼んだ妃の橘大郎女が、太子が死んだ後の天寿国の様子を刺繍で作らせたとあり国宝です。また、天寿国繍帳は現存する日本最古の刺繍作品でもあります。死を悼む祈りを表すことが刺繍のルーツとして、長艸氏はその技術、手法を学ぶべく復元するチームを作り20年取り組んできました。復元は材料からのこだわりで、刺繍の生地となる生糸を生む繭は「小石繭」といわれる日本古来のものを使用します。
普通の繭と小石繭では糸を出す量も太さも違い、小石繭を使って142デール(生地の厚さの単位)の生地を織るのに、一般的な繭と比べて小石繭は4倍の量が必要です。また、小石繭で生糸を作るには時間もかかり品質管理も大変なので、工賃価格は20倍に跳ね上がります。小石繭約6000個で1枚の着物になります。
小石繭からとれた生糸で、今度は「羅」を織ります。羅は透け感があって通気性が良いので夏の着物の帯などに現在は使われますが、そのほとんどが機械織です。実は、手織りの手法は時代を経て途絶えてしまったのです。現在ごくわずかの職人が試行錯誤して技術を復興されています。羅の特徴とて、糸は普通縦撚りですが、撚りをかけない無撚糸で縦の糸を横へ横へと捩って織る手法です。コンピューターのない飛鳥時代にこれだけ複雑な技術があるとは、驚嘆に値します。手織りでこれだけ複雑なものなので、1日で5~10㎝ほどしか進みません。非常に高価なものになることは否めません。
こうして白い生地を天然染して長艸氏は刺繍を施し復元しました。因みに、天寿国繍帳の中は法華経の内容が描かれているそうです。
刺繍の技術は、飛鳥、奈良時代は栄えましたが平安時代に入るとピタリと途絶えます。わずかに、十二単を着用する際の裳と束帯の帯に少しある程度でした。時代を経て鎌倉時代、武士が甲冑を使用するようになるとまた装飾として刺繍が栄えますが、古代とは全く違うものとなりました。いにしえの技法を、長艸氏はなんとか復元されたのです。
北観音山の胴体上部に飾る水引四面の元の絵は、円山派の絵師、中島来章が嘉永2年(1849年)ごろ、中国三国時代の武将関羽の生誕の祝いの行列を描いたといわれています。それを長艸氏の工房(長艸繍巧房(北区))が約8年かけて2015年に復元完成させました。
これだけ年数がかかった理由は、水引の絵の背景は全て金糸ですが、当初織物と思われるも良く見ると背景もすべて隠し綴じという刺繍だと判明したのです。四面という非常に長いものに背景として溶け込ませるには、職人の腕、コンディション、金糸の状態すべてがそろわないといけないという非常にセンシティブな作業となります。職人が一定のピッチで縫い進め、長艸氏が監督者として「見てみ、どう思う?」と言えば、恐怖のやり直し。また、金糸も同じ撚りの同じ状態のものを使い続けなければ、それもまたやり直しとなります。技術のある職人がその長さを金糸の隠し綴じで一往復するのに一日、二往復で二日間かかるわけです。さらにその刺繍の上に人物などの刺繍を施すことになるのですが、生地が金糸の刺繍ですでに分厚くなり、針を通すのに非常に固くペンチや目打ちを使うなど、まるで畳職人のような作業でした。
復元にあたり長艸氏が水引を作った店等の文献を調べたところ、当時はどうやら1年で完成させていました。現代の労働環境を整えねばならない社会状況や、限られた工房のスタッフ数といった条件を差し引いても、江戸時代の職人の技術とまとめ上げた大文字屋何某という人物がいかにすごいかが分かります。というのも、刺繍職人は昭和30年代ごろまではみな流しの職人だったからです。鑑札のようなものを持ち、日本全国仕事を求めて移動しており、長艸氏が子どもの頃の昭和30年代ごろも、先代のもとに職人等が何人も仕事を求めに訪ねて来ていたのを見ていました。彼らは日給を稼ぎ、ある者は博打、ある者は飲み屋等へと消えていったそうです。
因みに、長艸繍巧房での復元作業について、1か月おきに文化庁、市、府、学識、鉾町、祇園祭山鉾連合会、受注元会社すべての関係者同席で検査が入り、進捗状況を確認されたそうです。しかも、占出山の復元と同時並行のため、当時のご苦労が偲ばれます。
長艸氏いわく、大変といえども祭りは神事である。日本各地の祭りに関するものも関わったが、神さんのものでみなが拝む対象となるものである。能もしかり。芸能は全て神仏に歌舞音曲を奉納することで、芸人は奉納する人である。その人々をお手伝いしているので、われわれは手抜かりをしてはいけないのだ、と。
<1.驕らない心>
2.あっかんべぇ
3.叢生
4.花叢
遠くから見たら黒地が見えないほど一面に施された刺繍の能衣装。気が遠くなるほどの作業だったことでしょう。
ご紹介できたのはごくわずかで、他にも多くの作品が展示されていました。それらの多くは、長艸氏の著書にも紹介されていますので、気になる方はそちらをご覧になるのも良いと思います。ただやはり、実物を間近で拝見する機会はそうそうないもので、このような個展は非常に貴重な機会でした。来場者もみなかぶりつきでご覧になっていたのが印象的でした。
松井朋子(まついともこ)京都市まちづくりアドバイザー
刺繍の糸がより立体感を作っていることに感動しました。照明によって陰影ができるので、より立体感を感じることができました。